昭和五十七年十月六日  朝のご理解


御理解第八十九節  「此方の道は傘一本で開くことが出来る」


 金光大神の世界と申しますと、世の中の難儀に対する処し方、また難儀の受け方ね、だけに大体焦点を置いてみ教えが説かれてあるように思うんですね。
 ですから、どうでもその難儀なことを通しておかげを受けるということだけでなくて、いよいよ難儀を通して力を受ける、お徳を受ける、まあ言うならば教祖金光大神の御教えは、人間が真の幸福というか、人間としての幸福の条件を足らえることの為に、または「この世はあの世の為にある」と言われる。あの世にお徳を持っていけれることの為に教えの全てがあるようなふうに思いますね。
 まあ言うなら「雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ」とね。「井戸替えをするのに、七分八分でやめたらいつまでも清水にならない。井戸は清水になるまで」と言ったようないろいろなみ教えがありますけど、その井戸は清水になるまでが大変なことであり、その雨を、たとえば風を、雨にも濡れんで、降っても濡れんですむ。吹いても折れんですむような行き方というものが説かれてある、教えてあるんですね。
 ですから、いつもそこに、その、やはり金光教の信心をするなら、もう、言い換えると、めぐりの深い人達の集まりだというふうにも思えるです。ですからそのめぐりをお互い持っておるものばかりですから、そんならそのめぐりのおかげでね、だからお徳を受けた、力を受けたというようなおかげにしていかなければならない。
やはり「一生がまた修行じゃ」とこういうふうに教えられますね。勿論その修行の内容というものがね、まあ言うなら信心の徳が身についていくことを楽しみの修行である。金光教の御信心は大体そうなんですね。
 昨日、私は、研修の時に、皆に、信心の味わいというものがね、どこにあるかと。合楽で説かれる信心の味わいというものはどこにあるか。どう感じるかと、まあ皆一人一人聞きました。昨日は御理解が『味苦魅楽』の御理解でしたからでもありましょうけれども、やはり難儀の中に神愛を悟って、信心の味わいを、まあ分からしてもらうと。その為にはやはり魅楽である。楽なことに魅せられる。 だから合楽で例えば、修行でもしとる人達は、もう遊び好きの人なんかね、マージャンをやったり、パチンコ行ったりで、ああいうその遊び好きを、に、そのそれは次の働きのまあ為の遊びならいいけれども、遊びほうけてあくる日仕事が出けんような遊びですね。いわゆるあのまあその為に、例えば、難儀なことになっていかなきゃ…。あのパチンコやら競輪・競馬といったようなことをやる人達の場合は、ただ好きで道楽で楽しみにやるぶんならええけども、それにこってしもうて、自分の一生をだいなしにしてしまうといったような人達がありますから、ああいうことの好きな人は、だから金光教の信心にはなれないですと私は思うですね。本当の、特に合楽の信心は頂けないと思うです。
 いわゆる、「楽はせんぞといったような心になれ」というのだからね。いわゆる楽に魅せられるなと、だから楽に見せられちゃならんから、それこそ自分から求めて楽をしようとは思わんね。させて頂くというところに、いよいよ有難い、勿体ないと。信心の味わいというものは、またそこからでなからなければ味わえないね。その信心の味わいというものがあるんだと。合楽でその信心の味わいと言うたら、そういうような、もう確かに力につながる、お徳につながるような味わいを味わねばならんと思いながら、実際は出来ていないという場合が多いようですね。
 本当にお徳が身についていく楽しみというなら、そこに素晴らしい味わいが、それこそ難あって喜べというような喜び勇んで、それを受けていけれるんですけれども、やっぱりおかげが頂きたい。おかげが頂きたい。この難儀から早く逃れたいと、その難儀の味わいを味わおうとしない。その難儀から一時でも早よ抜け出たいというようなことでは、昨日の朝の御理解のその『味苦魅楽』ということになってこない。
 ですから、合楽で稽古してる人達は皆そういうだろうと思うですやっぱりね。合楽の信心の味わいというのは、難儀な中に味わいを、いわゆる神愛を悟っていくということが味わいなんです。けれども、何か大変厳しいものを、私昨日そんなことを聞きながら、皆に聞いて、皆の返事が、まあ皆同じようなことを言うんです。
 言うならば修行の、まあ、確かに合楽では修行の喜びとか楽しみとかというふうに申しますから、いつも何かそこに確かに修行しとらんならんといったような。けれどもこれは、私の母の里、麦生というところですが、じい、ばばあ、の生活というものを見ておって、このじい、ばばの言う、あの感化というものが私には非常に強いんです。もう非常に真宗の、まああげんとが篤信者と言うのでしょうね。
 もうとにかく、本当に、何と言うていいですかね。今から思うてみて、もう老夫婦二人で細々とお百姓しとる。きついと言うことでもない。まあ、夫婦で丁度いい。取り上げとか、いろいろ根つけの時には、若い方達を何人か来てもらって。また、親戚からお手伝いに行ったりというような、もう夫婦で何の不自由もない。健康ではあるし、不自由もない。伯父達が釜山で酒屋をしとりましたから、まあお金はいつでもあちらから必要な時送ってくる。というような、まあ、あの困ったこととか、難儀なことというのがない。 
 老夫婦、しかもそれこそ真宗の信心に帰依しきっておる。その生き方、在り方というものを私共は、ずうっと、こう見て来ておりますけれども、やっぱり若い時から信心が好きで、熱心だったようですね。今残っております、あのお経文なんかを、手書きで書いとるのが、十九才か、十八才の時に書いたものが残っています。
 まあ夫婦のものがどんなに忙しゅうして、取り上げ、私共が手伝いに行ってます時でも、どんなに遅くまでたとえば仕事がかかって、まあ取り上げなんかの時には遅なりますけども、やっぱ風呂から上がったら夫婦の者が、もうそれこそ長々と御仏前に出てお経文を上げて、いわゆるお勤めをするんです。もうそれがもう本当に有難うして、楽しゅうしてという味わい。
 朝ともなると一番に御仏飯を炊く。そしてあの御仏飯器に竹でお寿司を作るようにして、まあそれこそ、いかにも楽しゅうして楽しゅうしてたまらんような、これは、ばばがちゃんとこうするんですね。もうじいと、ばばで、二人でもうとにかく世の中の難儀なんかというものは全然ないという感じです。
 身体が強うして百姓して何一つ不自由のないというて、なら別にぜいたくしてどうこうということではないけれども、まあ私共が行って、おやつにはその御仏飯をこう下げてある。それにお砂糖をつけてくれるといったようなね。そしてまあ私に教えるというわけでもなかったでしょうけれども。そのじいが私に言うておったことが今にそれが思い出しただけでも有難くなるようなもの、ことばっかりである。ああいう行き方こそ信心の本当は味わいなんだろうね。御祈念せんならんからしよるというのではない。もうとにかく、まあ一日をしめくくって、もうそれでこそ長々と御仏前で、そのお経を上げてね、それこそ有難い有難いで寝さてもらうね。そういう信心の味わいというものがね。
 これは私共の夫婦の場合でも、昨日みんなに聞いてもらったことでしたけれども、あなた方が一日を終って、各自各自自分の部屋に行って、夫婦でね御祈念さしてもろうて寝みよるかと、私、昨日は、まあ聞いたんですけれども、初めの間は二人でしよったばってん、もうこの頃は別々でというような、もうそういうであったらね、もうとにかく、まあ夫婦の寝物語というのはもどんなに考えても有難いことばい。もうこれの言い暮らしであった。これは私共の夫婦の場合、もう一日のことを二人が揃うて御祈念をさして頂いて寝させてもらう。もうどんなに考えても有難いことじゃある。有難いことじゃあるが、私共の夫婦の寝物語でした。だからそういう味わいというものが、合楽の方達にはないごとあるねと言うて、まあ、昨日研修の時に申しましたことでした。
 皆さんどうでしょうかね、とにかく信心生活そのものが楽しいのであり、有難いのであり、しかも、夜揃うて、なら御祈念でもさしてもらう。その味わいというものはね、もう、それこそ信心の家庭情操ということが言われるが、そういう中から生れてくる情操の中に子供達が、孫達が育っていくね。
 確かに合楽では難儀の中に、いわばその神愛を悟っていく。そういう味わい、勿論味わいながら、これは私自身のことですけれども、やっぱりそういう中に味わいが分かっていくと同時に、いわゆる信心生活そのものの味わいね。
 夜の御祈念なら夜の御祈念でも、もう心ゆくまでで、これはもう今はもう御神燈、灯りがポーンとつきますからね。もう味気がないけど、私共の場合は、あの小さいローソクを買って、ローソクを立てて、電気を消してローソクの灯りで御祈念をする。もう何とも言えん味わいのものでした。
 だから昨日は、そういうことを家の修行生の先生方にも話したことです。信心の味わいね。成程合楽では「味苦魅楽」と言われる。いわゆる苦労の中に味わいを分かる。これはもう間違いなく、だから御神徳の世界に誘われる行でありますね。だからそういう行と共にですね、いわゆる生活全体が信心の味わいでね、終始出来れるような雰囲気というかね、情操というものが家庭の中に出来るような工夫もまたいるんじゃないかと思うです。
 「傘一本で開ける」このみ教えはもう大変むつかしい。どういうことが本当のことか分からないです。このみ教えは、簡単に金光教ではおかげ頂かれますよというふうにも頂かれますし、合楽で言われるようにね、信心による安心だと、傘一本ということは、安心一つでという意味なんだというふうに難しゅう説かれますね。その安心が一切を開いていってくれるんだ。だからそれが一番本当だというふうに。これはもうおかげに、力につながりますからねそういう頂き方は。だからだというふうに合楽では説きます。傘一本を頂くために、だからお互い信心しておるんだと。それにはいわゆる味苦魅楽であるね。そこに生れてくる心の安らぎ、それが安心とまで、それこそまあ信心の確立が出来てくるんですね。
 もうとにかく何と申しますかね、四六時中が信心なんですからね。これは私のなら、じい、ばばの場合のことを申しましても、もうとにかくあの大根の虫を、こうはわいて、昔は取るけども、それを殺さないんですからね。村の小川に持って行って流して、またもうおそらく今度生まれ変わって来る時には、もちっとええものに生まれ変わって来いというような意味でのお経文がをあげてから捨てよった。
 もうとにかく畳何枚かぐらい畑のすみの方に、これはもう四季折々の花が作ってあって、別にお花が好きということじゃないけれども、仏様にお供えするお花ばっかりでした。そして近所隣りにも配ってあげるというような、もうその仏様の信心そのものが中心なんですよね。そこに何とも言えん、その、まあ、味わいを感じておったんだろう。でなかったら出来なかったと。
 また私共に教えてくれることでも、「総一っちゃんやい、一つだんくらせられたっちや、決してケンカをしちゃならんぞ」と。「ケンカどんすんな」と、「一つだんくらせられたっちや、ナマンダブ、ナマンダブち言いよるとね。痛かつはようなる」ち言いよりました。それを私が芯から今に覚えて、また今に実行してるんです。
 聖人様の絵説きがございますが、それも私の方に残っております。仏壇の引き出しに入れてある、それをもう行くとすぐ、繰返し繰返し。それを出してくると、じいがもう丹念に一つづつその説明をしてくれるね。もう本当にその中でも私が好きだったのは、聖人様が七歳の時ですね、仏門に入られる。それでいよいよ明日はお得度の式があるというのにね。あの、唄を詠んで師匠にね、『明日あると思う心はあだ桜』ですかね、『岩に嵐の吹かぬものかわ』と、まあ桜の花があんなに見事に咲いてるけれどもね、もう嵐が来たら今夜のうちにでも、散ってしまうようなことになるかも分からんから、明日と言わずに今日その式をしてくれと言われたというような、もうそれが話が好きでね、そういう唄なんかでも覚えてるんです。 また長々と上げるお経文も一緒に覚えてるんです。そういうふうに育てられた。これは、なら、じい達が夫婦の信心の味わいというものが、もうみなぎってるわけですね。そういう雰囲気の中で、子供たちが育っていくというね。
 だから、これは金光様の御信心はちいっとこう険しい、難あって喜べとか、難の中に味わいをとこう、勿論私共がそれに直面した時には、そういう生き方を身につけていって、力も受けなきゃならん。お徳を受ける手立てがそういう時逃しちゃならんのです。けれども、と同時にです、常日頃の私は信心のね、味わいと、信心させて頂く者でなければ味わえない味わいが、家庭の中にも、お道の中にも、こう一杯みなぎってくるような工夫がいるね。
 夜の御祈念なんかは、本当にこう夫婦が揃って、まあ言うなら長々と昔ならば大祓信行だったでしようけどね。その信行でもさせてもらう、そしてなら結論として、もう一日を本当にあれもおかげじやった、これもおかげじゃった。もうどげん考えたっちゃおかげなことばっかりばいと、まあ、言い暮らしながら寝めれるようなね、味わいを一つ頂きたいと思うですね。
 もう今はテレビがありますから、テレビに害されましてね、もう御祈念の方はざあっとしてから、テレビの方へなってしまうような向きがあるけれども、ここは一つ、もう今日の御理解から頂いて、お互い信心の味わいというものがですね、ここにはね、もう心の安らぎというものが、もう難儀というものがなくなってくるんじゃないかと。私の方のじい、ばばの生き方でまいりましたら、「そりや困ったね、どうするか」といったようなことがないわけ。もうそういう、言うなら信心生活の中には、もう有難いことばっかりというようなね、あの勿体ない、いわゆる本当の信心生活が出来る。
 これは私共の場合を言うても、私の場合はそんな難儀があったから、難儀に向かって難儀の味わいを分かりながら、それでいて、ならそういう信心の有難い味わいというか雰囲気という、まあ、味わいなんては思わなかったけれども。今から考えると、あれが夫婦の間での信心の味わいであっただろうとこう思われるね。もう、本当にあのお灯りをあげて御祈念をさしてもろうて、もう消えるまで大祓をあげよる、二人で。神様のお心が、もうとにかく、まあ、あのう、もう何十巻あげてもお灯りが尽きなかったですね。それは不思議な不思議な働きを受けて、例えば、夜の御祈念なんかは頂いておりましたがね。
 そういうその情操的な味わいというものが、合楽の方には欠げておるなと。昨日は先生方一人一人の合楽の信心の味わいと言ったら、もう、難儀の中に味を探究していくこと。神愛を分かっていくことと言ったようなことだけしか皆が言わんですね。じゃなくて、もう御祈念をさせて頂いとる。信心生活そのものが味わいであるというような味わいの信心を身に付けていきたいと思うですね。どうぞ。